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最近の当ブログ内での一連の論争?の流れで相当険悪な状況になってしまったので
当ブログの管理人として少々やばくなってきたなと感じております。
そこで当ブログに関して簡単な決まり事(というほどではございませんが)を設けました。
純粋な論争であれば全く構いませんが
個々人の人格攻撃になるとこのブログの管理人としては看過できません。
このブログでお金を取って商売しているわけではない個人が運営しているブログなので
企業が運営しているように厳密に線を引くことは出来かねます。
よって私管理人の責任の下独断と偏見で
コメント等に人格攻撃と思しき記述があれば容赦なく削除させていただきます。
ただし一応これまでのコメントはあえて残しておきます。


・・・まあわかりますよ、熱くなるのは。
私も某サイトのコメント欄で論争になった時
こちらが丁寧に論理で返しているのに人格攻撃してくる輩がいたら
ブチぎれてそれ相応のことを私も書き込んだりしますからね。
(ただし絶対にこちらからは先制攻撃はしない)
そうなれば論争というより感情が先走って道理云々より
とにかく論破されたくないからとにかく相手を打ち負かしたいとなるだけですから。
気持ちとしては理解できますがやっぱりそれはいけませんよね。
あとこの一連の論争ももうよろしいでしょう。
傍で見ていてもどうもお二方とも信じるものが違うようですからね。
では、あと数時間で平成も終わり令和の時代になります。
皆さんも気持ち一新、気持ちよく新時代を迎えましょう。
では



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中阿含経第二二一経の「箭喩経」には有名な毒矢の例えがございます。
(あるいは中部経典第六十三経)
それはとある修行者が釈尊に

世界に終わりがあるのかないのか
世界は無限か有限か
精神と肉体は一体化それとも別か
如来は死後存在するのかしないのか


このように尋ねたところ釈尊がされたのが「毒矢の例え」です。
毒矢で射抜かれた人が苦しんでいるのに毒矢を抜いて治療せず
毒矢で苦しんでいる人が
「射抜いた人間の身分はどうかとか言った弓矢の材料がどうかとか
毒矢に塗っている毒の成分がどうかなどを
わからないうちは毒矢を抜かない」
と言ったらどうでしょうか。
それを知る前に毒が体内を回って死んでしまう。
世界がどうであろうが一切衆生の生老病死という
苦しみの解決には何の役に立たない。
毒矢で射抜かれた人間にとって大事なことはまず毒矢を抜くことであるように
苦しんでいる人間にとっては一番大事なのは苦を取り除くことです。
仏法の教主釈尊は御在世時に弟子たちからの質問に対して
成仏とは無関係の形而上学的質問にはお答えになっておりません(無記)。
その象徴的な例が上記の「毒矢の例え」です。
仏法の目的は客観世界の真理探究ではなく
仏の悟り(仏智見)を衆生に開き、示し、悟らせ、入らしめて
衆生を成仏に導くための教法なのです。
その成仏に無関係な言論を戯論といいます。
末法の世においては正しいご本尊に対して南無妙法蓮華経と唱え(自行)
正しいご本尊様を広める人のみが成仏できるのです(化他)。

(注)
あまりにも簡潔に書きすぎたみたいですがその辺ご了承ください



スパムかよ

全般

2018-01-29

以前「創価学会の記念日を嗤う」と題したオレの記事に
やたらめったら外国人と思しき人からよくコメントが来るんだが
英語ではない恐らくはポルトガル語で書かれたコメントがコンスタントにくるんだが
これなんなの?はっきり言って読めん。
しかもこの記事に対してのみ。
意図が全く分からんのだ。
純粋なコメントなのか、それとも嫌がらせか、そうかスパムだな。
全くうっとうしいもんだな。


あけましておめでとうございます。
今年は本格的に仏道修行に邁進していきたいと思っております。
出来る限りの寺院参詣、折伏、法華講活動に気合入れていきます。
で、今年一発目にオレのおかんと話したが
一度創価学会を脱会して法華講に入講してから
また創価学会に戻ってきた人の話を持ち出して
やっぱり法華講員は非常に冷たく
創価学会の人は温かいと言ってはばからない。
オレの親に突っ込んで聞くと
実際にそういっている人に直接話を聞いたわけではなく又聞きらしい。
こういう噂話はオレも活動家時分に弾に耳にしたことがある。
オレの場合は「寺に行ったら金の話ばかりで全然仏法の話をしない」で
法華講の人たちが不満を学会員にぶちまけていたという話だ。
オレが聞かされたことに関しては九分九厘嘘だと断定できるが
オレの母親の話は実際確かに法華講員は学会組織からすれば
ちょっとさみしいところがあることは確かだ。
住まいの近くの寺院に所属するわけではなく有縁の寺に所属するので
遠くから来る人も結構な数がいる。
だから何かあった時に励まし合ったり
普段からご近所づきあいとかもない場合も多い。
でもよくよく考えたら宗教団体に何を求めているのか。
世間一般でもそれぞれの「場所」にあった目的がある。
むしろそのそれぞれの目的のために当該団体があるわけだ。
例えば、学校は勉強するため、会社はお金を稼ぐために。
そして宗教団体は正しい宗教を信じて実践するためでしょ。
学校、会社、宗教団体に共同体としての機能を一切求めるなとは言わんが
それぞれの場所が果たすべき目的を脇に置いておいて
人間的なつながりだけを求めて籍を置くことにすごく違和感を感じるんだけどね。
だからオレに言わせれば法華講の人間関係が希薄だと言われても
「じゃあ、あんた宗教団体に何を求めてんの?」って話になるんだけどね。
共同体的な人間的つながりが大事であることは確かにそうだが
それはその団体の目的を果たしているというのが前提であり第一義にあるでしょ。
団体が果たすべき目的を忘れて共同体としての機能のみを求めるのは
本末転倒だと思うんだけどね。
オレの親には早くそのことに気づいてほしいよ、ったく。



拙ブログを始めて半年余り、
このブログを始めた当初はまだ学会員だった。
それがブログでコメントいただいた法華講員さんに
背中を押してもらい、正宗の寺院に訪問。
それで日蓮正宗帰伏と相成りました。
実を言うと、こんなに早くに正宗帰伏を考えていなくて
いろいろ話を聞かせていただいた上で
じっくり考えてからにしようと思っていた。
しかし、あれよあれよという間に正宗に帰伏。
まさか正宗信徒として今年の終わりを迎えるとは思ってもみませんでした。
で、帰伏から一年もたたずに本門戒壇の大御本尊様にお目通りを許された。
ただただ今年に一大秘法の大御本尊様にお目通りをさせていただいたことが
大げさなことかもしれないが、信じ難く、そして本当にありがたいことでございます。

内得信仰の身で御本尊様を下付されていない状況はなかなか大変だが
来年は本格的に信行学全てにおいてレベルアップさせていかないとね。
それは自分自身の弱いところに向き合っていかないといけない。
自分自身の愚図なところはよくわかっているつもりだが
ぐずぐずしていても功徳はいただけない。
まっ、来年は本当に勝負だな。

さて、このブログを始めた目的の一つに自分自身の勉強のためという目的もあった。
残念ながらその目的はほとんど達成できていなく
自分自身のふがいなさを実感している今日この頃です。
今自分の記事を読み直しても拙い文章、浅い内容で
自分自身がいかに未熟な存在かを恥ずかしく思っています。
いかに今まで自分が勉強してこなかったか残念で悔しくてしゃーないよ。
そんな拙いブログにコメントいただいた方には本当に感謝申し上げます。
本当に今年はありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
では、よいお年を。

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