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「学会員は頭のおかしな人しかいない」と、面と向かって職員に言ったことがありますよ。
何も否定はしてこなかったです。同意ともとれる発言がありました。
その職員もそう思っているだと、こっちが驚きましたよ(笑)
それが偽本尊のせいだと主張しているのが宗門ですね。
しかし両親は日達猊下の御形木でしたが、狂ってきてました。
同様に創価本尊にしなかった家も狂ってました。
創価の害毒が充満している環境にいれば、無影響ではいられない。頭が狂うと思っています。
******************************************

小野塚様からこのようなコメントいただきましたが
実を言うと私も以前に多様な疑問を持っておりました。
私が創価学会の間違いに確信しつつも学会員時代
(ネット情報で申し訳ないが)日蓮正宗創価学会時代にも
多くの学会員が精神的な病気を抱えていて
しかも言動に何か多くの問題がある人間が多かったことも知っていました。
その時は「学会は昔からおかしな人間が多かったんだ」との認識しかなく
簡単にスルーしたんだが心のどこかには引っかかっていました。
また私よりも一回り以上上の学会員を折伏して回っても
大御本尊様を受持の対象から外したことに対しての反応が非常に鈍く
その後私が創価学会のご本尊がニセ本尊でそれを拝むと不幸になると分かって
創価学会をやめて日蓮正宗に帰伏したわけだが
日蓮正宗に帰伏して心に引っかかっていたことを思い出したんです。
それは日蓮正宗のご本尊が本物のご本尊様であるなら
日蓮正宗創価学会時代の創価学会員に
なぜ多くの精神的におかしな人間が多かったのかということです。
非常に不思議だったが色々私の母親とか周りの壮年部の話を聞いたことを総合すると
要は日蓮正宗の在家信徒団体でありながら実質的には
日蓮正宗の信仰をしていなかった
ということなんです。
形だけは確かに日蓮正宗の信徒でしたけどね。
形だけという以上に日蓮正宗の在家信徒という感覚すらもなかったように感じましたよ。
学会員の意識の上には元々恐らくご宗門、
もっと言えば正宗の三宝の存在はほとんどアウトオブ眼中だったと思います。
日蓮正宗の信仰の根本は一大秘法の大御本尊様と
大御本尊様と而二不二の唯授一人血脈相承です。
私の母親や周りの学会員の日蓮正宗創価学会時代全盛期の学会員に聞いても
彼らはお寺に参詣したという話を聞きませんでした。
以前私の母親に日蓮正宗のお寺に参詣したか聞いたことがありますが
母親に至っては御受戒の時に一度行っただけだと言っていました。
御受戒の時にお寺に参詣するのは当然でしょう。
正宗における信仰の基本の一つに寺院参詣がありますが
私の母親や壮年部の人たちは毎月の御報恩御講はもちろんのこと
彼らは日蓮正宗の最重要法要である御会式すら参詣していなかったのです。
御受戒だけお寺でして普段の活動等は学会の会館か近所の個人拠点でやってたんでしょう。
大御本尊もしかり。
親に登山の話を聞いても「まあ確かに二回行ったけどぉぉぉぉぉぉ」と鈍い答え。
壮年部の人に聞いてもやっぱり「ああ、二回ぐらいは行ったねぇ」と
ニュアンス的には私の母親も壮年部の人も
学会という組織が行けと指導したから義務的に行ったという感じでした。
その当時の池田創価学会の指導を読んでも
仏法の話も「多少」はあったが世法上の道徳論や人生訓の話のほうが多かったですね。
そしてそれらがさも仏法であるかのように混同していました。
また池田は私の母親が入信したときには
「南無妙法蓮華経は宇宙根源の法」とか
「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」とか
「それを大聖人が一幅の曼陀羅に書き表わしたのがご本尊様」とかいう邪義を
もうすでに私の母親が入信した当初から吐いていましたから。
連中の信心が歪むのはまあ当然でしょう。
いや、まあ他人のこと特に人生の先輩方のに対して
あんまり偉そうなこと言うのもなんですが
もともと正しい信心なんてはじめっからなかったんですよ。
すべてが池田の誤った邪義を正統な仏法だと思い込んでしまったんでしょう。
まあ池田センセの言っていることは確かに上っ面においてはいい事言っていますがね。
池田センセの言っていることは世法上良い事言っていてもなぜか学会時代を通して
私自身は一つも同意できませんでした。
池田大作が指導する師弟観も仏法上の師弟義ではなく
あくまで世法上の師弟関係を御書を曲解して
御書に書かれている師弟義を即世法上の師弟論に当てはめて
あたかも池田センセを師と仰いで池田センセの指導に沿うことが正しい信心の在り方と
長い年月をかけて刷り込んでいったというのが私の見解です。
仏法上における根本の師はあくまで日蓮大聖人であり
又血脈付法の歴代御法主上人猊下であるということ
そして在家は所属している末寺の御住職を手つぎの師と仰いで
日々仏道修行に励んでいくのが日蓮正宗の本来の在り方です。
在家同士が仏法上の師弟関係を結ぶなんてことはあり得ません。
大聖人様もそんなこと在家同士で師弟関係を結んでもいいとは仰せではありません。
在家同士はあくまで同行の善知識でともに励まし合う存在に過ぎません。
(過ぎないという言い方はちょっと悪いかな)
世法上の師弟論と混同してしまった学会員は
血脈付法の歴代御法主上人猊下と
猊下の意を受けた各末寺の御住職を師と仰がず
池田なんかを(仏法上の)師と仰いでしまった挙句
彼らは口々に「池田センセ~」と黄色い声を上げて
まるで池田大作を御本仏のように崇拝していましたから。
過てる人間を師と仰いた学会員の信心が歪むのは当然の帰結だったってことです。
今も昔も仏法、なかんずく大聖人仏法から外れたことをやっていたのです。
だからいくら形の上は学会を通じて日蓮正宗に入信していても
その内実は日蓮正宗の信仰なんてやってなかったんですよ。
だからいくら日蓮正宗に入信して日蓮正宗のご本尊様を拝んでいても
最終的には狂っちゃうし当時から精神的にやばい人たちが
時折学会の中から出てくるのも当然だったということなのです。





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創価学会は権力も財力もあって立派な団体ですが

祖父の御書をみると至る所に赤線や注釈があり勉強していたのが分かります。昭和28年頃の入信です。
父はあまり読んでいない。しかし大百の載る御書は読んでましたね。
昔は大石寺の登山会が盛んで、私も節目ごとに数十回は行っています。生の池田を見たのも大石寺です。少年部の時です。
年末12月31日は地域のお寺で新年勤行会に行くのが我が家の恒例で、その後、学会の会館でも新年勤行会が催されるようになったわけです。
年代を経るごとに、お寺離れと日蓮仏法離れを計画的に実行したんだと思いますよ。
そして質が低下していった。いや意図的に質を低下させてますね。人事をみれば分かります。

男子部に入って驚いたのは御書を読めないことですね。意味が理解できないのではなく漢字が読めないんです。それが部長でした。
宗門離脱後からはさらに質の低下が急速化して悲惨な状況ですね。
あっと言う間に鬱や統合失調症やパニック障害などの心の病を持つ人ばかりの集団になってしまいました。
人相も悪い。般若の顔をした婦人部や、爬虫類の目をした地方議員、アブノーマルな性的傾向を持つ職員など。
一般会員も支部長以上になっている人達の学歴は、中卒か高卒か少年院卒です。大卒はまず居ない。
その職業は、人足出しの手配師や労務者や職人。役所の清掃局勤務が不自然にやたら多い。
会員全体では、年金生活者や生活保護受給者、障害手帳所持している人達が多いですね。普通のサラリーマンはほとんど活動していません。
だから選挙の時は大変で、在日や公務員が多いので部員を煽るだけで自分じゃやらない。
まるでブラック企業の管理職と部下の関係で、役職の権威で任意団体の会員の尻を叩くわけです。
ま、そうなると、当然、日蓮仏法の信仰を持つ人達は宗門へ行くし、普通の常識を維持しないと生活が危うくなるサラリーマンや経営者は学会から離れるわけです。
創価学会の目的は戸田が言っていた広宣流布ではなく、あるがままに歴史を見れば金儲けと権力にあるわけですから、当然、扱いやすい愚かな人達が人材になるわけです。
扱いやすい人達とは権威に無条件に服従する人達なわけですね。
社会性が乏しいとか、差別されている人達とか、経済的な弱者とか、精神的な弱者が創価に服従させやすい利用しやすい人達だから、そういう組織にする必然性があるわけです。
しかし、利用されている彼らはそうは思っていません。
煽てられ、役職を付けられ、豚が木に登るように思いあがって下の会員を見下くだせるから、一方的に学会に利用される関係でありながら、未だに学会に居るわけです。
彼らは社会に順応できず学会にしかアイデンティティーがないから辞められないのであって、信仰心ではないのを職員達も知っていて利用していると思います。
だから甚深の日蓮の仏法は必要がない。
今後もその傾向は強くなると予想しています。

Re: 創価学会は権力も財力もあって立派な団体ですが

> 祖父の御書をみると至る所に赤線や注釈があり勉強していたのが分かります。昭和28年頃の入信です。

戸田会長は強々にに御書を心肝に染めるよう指導されてますね。

> 父はあまり読んでいない。しかし大百の載る御書は読んでましたね。
> 昔は大石寺の登山会が盛んで、私も節目ごとに数十回は行っています。

正宗に帰伏なさってぜひとももう一度登山され
大御本尊様の元におかえりください。

生の池田を見たのも大石寺です。少年部の時です。

それは小野塚様がその時池田にどういった印象をお持ちになったか興味津々ですね。

> 年末12月31日は地域のお寺で新年勤行会に行くのが我が家の恒例で、その後、学会の会館でも新年勤行会が催されるようになったわけです。
> 年代を経るごとに、お寺離れと日蓮仏法離れを計画的に実行したんだと思いますよ。
> そして質が低下していった。いや意図的に質を低下させてますね。人事をみれば分かります。

まだ小野塚様の世代ではお寺に参詣されていたんですね。
私が生まれる頃はすでにお寺にはかすりもしませんでした。
新年勤行会も近所の会館でお寺には一切参詣したことがございません。
よって日蓮正宗という意識が皆無でした。
>
> 男子部に入って驚いたのは御書を読めないことですね。意味が理解できないのではなく漢字が読めないんです。それが部長でした。
> 宗門離脱後からはさらに質の低下が急速化して悲惨な状況ですね。
> あっと言う間に鬱や統合失調症やパニック障害などの心の病を持つ人ばかりの集団になってしまいました。

破門後は完全な謗法団体ですから罰しかありません。

> 人相も悪い。般若の顔をした婦人部や、爬虫類の目をした地方議員、アブノーマルな性的傾向を持つ職員など。

如是相が表れていますね。

> 一般会員も支部長以上になっている人達の学歴は、中卒か高卒か少年院卒です。大卒はまず居ない。
> その職業は、人足出しの手配師や労務者や職人。役所の清掃局勤務が不自然にやたら多い。
> 会員全体では、年金生活者や生活保護受給者、障害手帳所持している人達が多いですね。普通のサラリーマンはほとんど活動していません。

まあ実際は社会的には成功している学会員もいるわけだ
私の学生部時代の後輩は弁護士になって活躍しています。

> 創価学会の目的は戸田が言っていた広宣流布ではなく、あるがままに歴史を見れば金儲けと権力にあるわけですから

金儲けのために信仰を利用したのが池田です。



池田大作は独自用語を使うのが好き

こんばんは。
日蓮正宗の寺院にほとんど参詣しなかったというのは、かなり極端な地域性ではないかと思います。
私の実家がある地域では、破門直前の時期でも、毎月の御講には学会員も参加するのが普通でしたよ。

>「南無妙法蓮華経は宇宙根源の法」とか
>「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」とか
>「それを大聖人が一幅の曼陀羅に書き表わしたのがご本尊様」とかいう邪義

これについては、就註法華経口伝(御義口伝)に説かれている内容を別の表現に置き換えただけだと思います。
ただ、池田大作の場合、仏法用語を別の表現に置き換えたり、仏法とは本来関係の無い物事を仏法に関連させたりするのが好きですよね(失笑)
その結果、仏法用語を別の表現に置き換えた概念と創価学会独自の思想をごちゃ混ぜにされて、学会員は変な思想の持ち主になっていくわけです。
「公明党を支援すれば功徳がある」みたいな。
いや、私も昔はそう信じていましたけどね。
法華経の内容と立正安国論の記述を基に論理を構築して。
学会員や公明党の議員は「法華経の行者」ではないし、公明党は「四表の静謐」「国土の安穏」を願っているわけではないので、前提条件が成立していなかったんですけどね(失笑)

創価は誰の教えなのか

>それは小野塚様がその時池田にどういった印象をお持ちになったか興味津々ですね。

そんな事を聞くのは学会員だけだと思ってました(笑)
少年の私が一番嫌だったことがそれです。
学会では池田や大きな会合の様子を美化して話さなければいけない。
嘘つきになることを強要されることでしたから。
一言で本心を言えば、あの場に居ることが恥ずかしかったということになります。
池田はどうでもいい人で、会合に出るのは嫌いでした。
周囲の熱狂についていけない。日常の自分にないし、そういうキャラじゃない。
だから当時の会合の集合写真には、恥ずかしくていつも真っ赤な顔をしてひきつって写ってます。
信心がないように言われましたけど(笑)、会合で熱狂しない自分の性質が有利性だったと気付いたのは、職業人に成ってからです。

我が家には「戸田先生の教え」というタイトルの肉声入りのレコードがありました。
宗教学者との対談や質問会の様子が収録されたものです。
このレコードを発見して驚いたのはこのタイトルです。当時から学会では、日蓮大聖人の教えと戸田城聖の教えの二つが混在していて学んでいたわけです。
聖教新聞は聖の教え、はて、大聖人なのか城聖なのか、本当の意味するとこは微妙ですね。
城聖と自ら改名して名乗る行為も微妙ですね。教祖に成りたい願望なのか、教祖だったのか。
学会員は実際何を信じていたのか。大聖人なのか池田会長なのか。人それぞれだったように思いますね。
少年時代の遠い記憶にある大人達の会話からすると。
カリスマ化は計画的にじっくり浸透させたことだと思います。

Re: 池田大作は独自用語を使うのが好き

> こんばんは。
> 日蓮正宗の寺院にほとんど参詣しなかったというのは、かなり極端な地域性ではないかと思います。
> 私の実家がある地域では、破門直前の時期でも、毎月の御講には学会員も参加するのが普通でしたよ。

なるほど、ということは私の母だけがお寺に参詣していなかったと。
余計に私の母はろくでもない信心をしていたんだなと思いました。

> >「南無妙法蓮華経は宇宙根源の法」とか
> >「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」とか
> >「それを大聖人が一幅の曼陀羅に書き表わしたのがご本尊様」とかいう邪義
>
> これについては、就註法華経口伝(御義口伝)に説かれている内容を別の表現に置き換えただけだと思います。
> ただ、池田大作の場合、仏法用語を別の表現に置き換えたり、仏法とは本来関係の無い物事を仏法に関連させたりするのが好きですよね(失笑)

池田大作については
仏法よりも西洋哲学がお好きなようです。
あと私はtakeda様と比べても全く浅学でして
このブログを始めた目的が自身の勉強のためでもあります。
いろいろご教授賜わればと思います。
この件に関しては
日淳上人が
「仏法に於ては法華経寿量品の文底の南無妙法蓮華経が肝心の要法であって、此の要法は日蓮大聖人の所有遊ばされるところである」(日淳上人全集981頁)
「題目を主として御本尊を忽がせにする者が多いのであります。元来かような考へは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。此は大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。即ち法報応三身具足の当体であらせられ報身中に具し玉ふのであります。妙法の理は天地の間にありましてもそれは理性であります。実際には仏の御智慧のうちにのみ厳然として具はり玉ふのであります。」(日淳上人全集982頁)
「久遠本有の妙法蓮華経は大聖人の具有し玉ふところであります。大聖人はその御境界を観心の本尊として建立し玉ふたのであります。くれぐれも此の報身を離れた妙法を以て御本尊と考へてはならないのであります」(日淳上人全集1004頁)
等と、明確に御教示遊ばれております。
単なる法のみが存在するのであれば正宗の「人法一箇」がわからなくなります。
法というものがそれ単独で存在するのではなく
法というのは仏の悟りですから法は仏とは離れられないのではないでしょうか。
御義口伝でも
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」
とあります。

> その結果、仏法用語を別の表現に置き換えた概念と創価学会独自の思想をごちゃ混ぜにされて、学会員は変な思想の持ち主になっていくわけです。

まあそれは戸田会長時代からの話だと思います。
「人間革命」「幸福製造機」「仏法哲理、哲学」云々。
それを池田が「相承」してしまったのかと。

> 「公明党を支援すれば功徳がある」みたいな。
> いや、私も昔はそう信じていましたけどね。

私も信じておりました。
> 法華経の内容と立正安国論の記述を基に論理を構築して。
> 学会員や公明党の議員は「法華経の行者」ではないし、公明党は「四表の静謐」「国土の安穏」を願っているわけではないので、前提条件が成立していなかったんですけどね(失笑)

Re: 創価は誰の教えなのか

> >それは小野塚様がその時池田にどういった印象をお持ちになったか興味津々ですね。
>
> そんな事を聞くのは学会員だけだと思ってました(笑)

(笑)

> 少年の私が一番嫌だったことがそれです。
> 学会では池田や大きな会合の様子を美化して話さなければいけない。

学会員が期待することの正反対のことを小野塚様に私は期待しております(笑)

> 嘘つきになることを強要されることでしたから。
> 一言で本心を言えば、あの場に居ることが恥ずかしかったということになります。
> 池田はどうでもいい人で、会合に出るのは嫌いでした。
> 周囲の熱狂についていけない。日常の自分にないし、そういうキャラじゃない。
> だから当時の会合の集合写真には、恥ずかしくていつも真っ赤な顔をしてひきつって写ってます。
> 信心がないように言われましたけど(笑)、会合で熱狂しない自分の性質が有利性だったと気付いたのは、職業人に成ってからです。
>
> 我が家には「戸田先生の教え」というタイトルの肉声入りのレコードがありました。
> 宗教学者との対談や質問会の様子が収録されたものです。
> このレコードを発見して驚いたのはこのタイトルです。当時から学会では、日蓮大聖人の教えと戸田城聖の教えの二つが混在していて学んでいたわけです。

まあ想像は尽きます。

> 聖教新聞は聖の教え、はて、大聖人なのか城聖なのか、本当の意味するとこは微妙ですね。
> 城聖と自ら改名して名乗る行為も微妙ですね。教祖に成りたい願望なのか、教祖だったのか。

まあ確かに毀誉褒貶の激しい人との印象を私は持っております。
しかし曲がりなりにも戸田会長は本門戒壇の大御本尊様と
唯授一人血脈相承は信じておりました。
以前takeda様もご指摘の通り
戸田会長は日蓮正宗に帰伏されて以来終生日蓮正宗の信徒として
折伏と御宗門の発展と外護に身を捧げられ日蓮正宗の信徒として生涯を終えられました。
なのであまり戸田会長の批判はよろしくないと思います。
正墓は大石寺の五重塔のそばにあります。
一度お墓の前でお題目を参照させていただきました。


「南無妙法蓮華経は宇宙の根源の法であり、リズムである」という主張は確かに御義口伝の中に書かれているので間違いではないんですが、そこにこだわると天台宗の思想に近づいてしまうんですよね。
「じゃあ紙の御本尊いらないだろ」という話になってしまいますから。
「真理の探究」にこだわると「日蓮大聖人の仏法では紙の御本尊に合掌礼拝して唱題すること、それを他の人にも勧めることが一番大切なんだ」ということがわからなくなってしまいます。

昔よく聞いた池田大作の逸話で「移動中の車や飛行機の中、あるいは訪問先の場所でその地に題目を染みわたらせる気持ちで唱題していた」というのがありました。
池田大作の題目に対する考え方は、天台宗っぽいんですよね。
たぶん池田大作の中では題目が一番大切なんです。
そこが御本尊を一番大事にしていた戸田会長との明確な違いですね。
付け加えて言うと、現会長の原田も、数々の発言等から推察して、題目が一番大切だとおそらく思っています。
だから池田も原田も日蓮大聖人の仏法からずれていってしまったわけです。
「真理の探究」にこだわるタイプの人は、結局、日蓮大聖人の教えからずれてしまうんです。

>「人間革命」「幸福製造機」「仏法哲理、哲学」云々。

これらについては「そうではない」ということは言えないと思います。
日蓮正宗の信心をして人格が良い方向に変わっていくことを「人間革命ではない」とは言えない。
御本尊を「幸福製造機ではない」とは言えない(失礼な表現ではありますが)。
日蓮大聖人の教え(特に御義口伝)を「哲理・哲学ではない」とは言えない。
ただ、それらの別表現をやたら強調するようになったら、日蓮大聖人の教えからずれていってしまうと思いますが。

戸田城聖の言葉によれば

戸田城聖の批判が良くないと私は思っていませんが、法華講の方が嫌がっているのは感じてますよ。他のブログでも。
法華講が嫌がることをすれば、創価が利する関係ですから止めておきます。

「広宣流布ができた暁には創価学会を解散してもいい」との戸田の発言があります。
組織は目的があって存在するもの。目的が無くなれば解散するのが筋だとの、当然の理屈ですね。
令法久住は宗門の役割だし、実績もある。だから創価は要らなくなる。そういう関係性でしょう。
また、組織化するのは金儲けが目的ではではありませんという戸田の宣言でもありますね。

5年程前だったか地方議員にそれを指摘して、「だから創価はさっさと解散すべきだ」と言ったことがあります。
もう広宣流布はできないのが誰の目にも明らかですし、創価は達成したとも言っている。
「もう目的を喪失しているのだから、ただ職員を食わせるためだけに会員が利用される関係性ですね」と言ってやったら絶句してました(笑)
戸田城聖の言葉を守らない創価は。やっぱり実態的には池田教なわけですね。

創価学会は、誕生した当時から、日蓮正宗の教義とは本来関係の無い思想を持った団体だったわけで、そこは問題ではないと私は思います。
問題は、
 ①御法主上人猊下の権威や権能を侵害すること
 ②御法主上人猊下の権威や権能を否定すること
の2点があるか無いかではないでしょうか。
池田大作の場合、「七つの鐘」がどうとか言っていましたが、広宣流布の計画や構想を提示するのは御法主上人猊下の役目ですよね。
御書講義の出版についても、やはり御僧侶方の監修を受けた上でするべきだったのではないかと思います。
創価学会は、あまりにも独自性・独立性が高すぎました。
他の異流儀団体についても、上記の2点の少なくとも1つに該当したからダメなんだと思います。

Re: タイトルなし

> 「南無妙法蓮華経は宇宙の根源の法であり、リズムである」という主張は確かに御義口伝の中に書かれているので間違いではないんですが、そこにこだわると天台宗の思想に近づいてしまうんですよね。

もちろん「理」に即して言えばそうです。
しかしそれはtakeda様もご指摘のようにそれは天台教学なのです。


Re: タイトルなし

> 昔よく聞いた池田大作の逸話で「移動中の車や飛行機の中、あるいは訪問先の場所でその地に題目を染みわたらせる気持ちで唱題していた」というのがありました。

ありましたありました(笑)
私が覚えているのがブラジル訪問時について
書かれている文章の中で見た覚えがあります。
(記憶違いであればすみません)
なんかカルト臭くて芝居がかってて
気持ち悪かった覚えがあります。

> 池田大作の題目に対する考え方は、天台宗っぽいんですよね。
> たぶん池田大作の中では題目が一番大切なんです。
> そこが御本尊を一番大事にしていた戸田会長との明確な違いですね。
> 付け加えて言うと、現会長の原田も、数々の発言等から推察して、題目が一番大切だとおそらく思っています。

う、うぅぅん。
そもそも池田以下の創価執行部は全く信仰心がないと私は思っております。
初期の段階ですでにあまり仏法には関心がなかったように思っております。
池田に関心があったのは哲学、それも西洋哲学でしょう。
私が池田に感じたのは池田は外国
特に西洋的なものがお好きなように感じました。

> だから池田も原田も日蓮大聖人の仏法からずれていってしまったわけです。
> 「真理の探究」にこだわるタイプの人は、結局、日蓮大聖人の教えからずれてしまうんです。

大変失礼なものいいかもしれませんが
takeda様は意外と創価を擁護されますね。
私なんかは完全否定ですよ。
池田以下創価執行部の人格、信仰心なんて
私はこれっぽっちも信用してませんから。
つゆほども創価執行部に信仰心や他人の幸福を望む気持ちがなかった。
連中にあるのは四悪趣三悪道の汚い命だけ。
私はそう確信しております。


Re: タイトルなし

> >「人間革命」「幸福製造機」「仏法哲理、哲学」云々。
>
> これらについては「そうではない」ということは言えないと思います。
> 日蓮正宗の信心をして人格が良い方向に変わっていくことを「人間革命ではない」とは言えない。

それについては一応同意いたします。

> 御本尊を「幸福製造機ではない」とは言えない(失礼な表現ではありますが)。

それには一切同意できませんね。
ご本尊様は仏身です。
御本仏が御入滅以来あのお姿で
末法万年、尽未来際まで我々凡夫のために
説法をしていただいているお姿です(常住此説法、法華経如来寿量品第十六・自我偈)
いわば御本仏日蓮大聖人様そのままのお姿がご本尊様なのです。
根源の師は当然御本仏日蓮大聖人様であり
その後本仏にお仕えしてこそ我々凡夫を成仏させていただけると思っております。
その御本仏に向かって「幸福製造機」とは口が裂けても恐れ多くて言えません。

> 日蓮大聖人の教え(特に御義口伝)を「哲理・哲学ではない」とは言えない。
> ただ、それらの別表現をやたら強調するようになったら、日蓮大聖人の教えからずれていってしまうと思いますが。

これに関してはちょっと沈黙させていただきます。

Re: 戸田城聖の言葉によれば

> 戸田城聖の批判が良くないと私は思っていませんが、法華講の方が嫌がっているのは感じてますよ。他のブログでも。
> 法華講が嫌がることをすれば、創価が利する関係ですから止めておきます。

戸田会長は毀誉褒貶禿しい人だということは思っております。
そこまで言うほどきれいな人間とは思っておりません。
非情に打算的な部分も在家の凡夫としては当然あるでしょう。
その程度が大きいか小さいかの違いであって私にも当然あります。
それを信心の場に持ち込んだことは問題ですがね。

> 戸田城聖の言葉を守らない創価は。やっぱり実態的には池田教なわけですね。

はい、その通りです。
しかし今の学会員は戸田会長の指導を読みません。
永遠の指導者としながら。

Re: タイトルなし

> 創価学会は、誕生した当時から、日蓮正宗の教義とは本来関係の無い思想を持った団体だったわけで、そこは問題ではないと私は思います。

ごめんなさい。
それこそが創価異流義化の元凶だと私は思っております。

> 問題は、
>  ①御法主上人猊下の権威や権能を侵害すること
>  ②御法主上人猊下の権威や権能を否定すること
> の2点があるか無いかではないでしょうか。
> 池田大作の場合、「七つの鐘」がどうとか言っていましたが、広宣流布の計画や構想を提示するのは御法主上人猊下の役目ですよね。

やっぱり創価が末寺ご住職を手続の師と仰がなかったことが元凶でしょう。
末寺ご住職を通して猊下のご指南を拝し仏道修行に励むのが
本来の日蓮正宗の在り方ですから。
だから上記のような問題が起きる。
そしてそういう問題が起こるのは
やっぱり世間的な師弟論を創価に持ち込んだためだと思っております。
世間的な師弟論を仏法上の師弟義と混同させてしまった土壌は
やはり世間的な一般道徳を安易に大聖人仏法に絡めて指導したからだと思いますよ。

> 御書講義の出版についても、やはり御僧侶方の監修を受けた上でするべきだったのではないかと思います。
> 創価学会は、あまりにも独自性・独立性が高すぎました。

以前にもブログで書きましたが
創価に独自性は一切不要だというのが私の見解です。
大聖人様の仰せの通りに信仰していればいいんです。


流儀が違っても

別に創価がどんな思想を持ち、どんな指導を会員にしても別に私は関知しなかった。
日蓮正宗や日顕法主を批判し始めてもあまり気にしていなかった。
正直言えばそうでした。

しかし創価は破門から急速に劣悪な状態になりましたね。
一言で言えば会員の心が貧しくなった。活動者全員がそうです。
会内での恨みや妬みが尋常ではなくなり、反社会的な行動も目立ち、何度か私も生活上の被害を被ったわけです。
当然、距離を置きますが、それでも執念深く嫌がらせを仕掛けるために追いかけて来た。活動させるのが目的と言いながらです。
そこまで人間を狂わせる宗教になったわけです。

また活動していた親族や親戚も常識判断や生活がおかしくなってきて、これはもう放置できないところまできて脱会活動を一人で始めたわけです。
社会問題だと捉えているのもそこにあって、思想だけの問題じゃないわけです。
当然、創価問題の原因は思想の狂いにありますが、会員が理性で制御できているのなら批判しなかったです。
主に伝統宗教ですが、他宗教の友人達とは互いにリスペクトできる良い関係にあります。
つまり創価だけは、もう社会的に限度を超えているという私の判断です。
この国に不要でしょう。デメリットしかない。人を不幸にしかしない。
その辺りの認識の違いを管理人さんに感じますよ。

創価学会という集まりは辞められない人の集まりです。
職員にしろ、一般会員にしろそうです。
気が付いた時には手遅れで、深く依存状態になっている。
だから怖いのですが、更に依存度を高める努力を創価はしていますね。恐ろしいことです。

ある程度の独自性・独立性は許容範囲

もし、牧口会長・戸田会長に独自性・独立性が全く無かったら、日蓮正宗の拡大も無かっただろうと思います。
創価学会による御書講義等の出版が無ければ、日蓮大聖人の思想がここまで広く伝わることも無かったでしょう。
私は今でも創価学会発行の仏教哲学大辞典や英訳御書全集を持っていますし、現時点では捨てる気もありません。
日蓮正宗を否定している部分を割り引いて読む限り、知識的な意味では確かに間違ってはいないからです。
日蓮正宗の教学関係の本は、知識的な意味での参考文献としては、はっきり言って、過去の創価学会の出版物よりも遥かに劣っています。
日蓮正宗はいまだにまともな英訳御書全集さえ出版できていません。
法華講員の平均的な教学力も、過去の創価学会員の平均的な教学力に比べて、遥かに劣っています。
法華講員で教学力のある人は、だいたい元創価学会員です。
こういうことを言うと謗法に当たるかもしれませんが、否定できない事実です。
創価学会に関しては、手綱をつけておかなかったことが一番の失敗だったと思います。
せめて創価学会内の人事権だけは日蓮正宗側でしっかり把握しておけばよかったのではないかと。

創価学会が無ければ今の日蓮正宗も無かったことは事実

今の日蓮正宗で行われている折伏戦も支部登山も、はっきり言って、過去の創価学会の真似じゃないですか。
創価学会が出現して、ある程度の独自性・独立性を持って布教活動をしていなかったら、今の日蓮正宗の布教活動も無かったはずです。
創価学会が出現しなかったら、日蓮正宗は、富士宮市の外ではほぼ無名の弱小宗派のまま、緩やかに衰亡していく運命だったでしょうね。
過去の創価学会の功績は素直に認めなければならないと思います。

日蓮正宗は信徒が自力で仏法を学ぶことを恐れている

今の日蓮正宗で教学を自力で深く学ぶことは非常に困難ですね。
良質の教材がありません。
まともな英訳御書全集さえも無いので、特に海外の信徒にとっては、絶望的な状況です。
御宗門は「深く学びたいなら、末寺の住職に聞けばいい」というお考えなのでしょうが、その方式では限界があります。
御宗門は「信徒に御書等を自力で学ぶことを許した結果、変な思想を身につけた信徒が増えて、創価学会等の異流儀団体が次々と生まれた」と考えていて、信徒が自力で学ぶことを恐れているのではないかと思います。
でも、それは団体に対する管理・指導が甘かったからであって、自力で教学を学ばせたからではないと私は思うのですが。

Re: ある程度の独自性・独立性は許容範囲

> もし、牧口会長・戸田会長に独自性・独立性が全く無かったら、日蓮正宗の拡大も無かっただろうと思います。

独自性がいいかどうかは別として確かに勢いと向上心があったのかもしれません。

> 創価学会による御書講義等の出版が無ければ、日蓮大聖人の思想がここまで広く伝わることも無かったでしょう。
> 私は今でも創価学会発行の仏教哲学大辞典や英訳御書全集を持っていますし、現時点では捨てる気もありません。
> 日蓮正宗を否定している部分を割り引いて読む限り、知識的な意味では確かに間違ってはいないからです。

それは全くそう思います。
正宗で御書ができたのは平成になってからでしょう。
私も御書はいまだに学会版を使用しております。
平成新編御書も持っておりますが。
創価学会発行の六巻抄も持っておりますし
富士宗学要集も学会が出版しておりますね。
一応あの当時の学会は無茶苦茶なところもございましたが
信心も強かったからでしょうか。

> 日蓮正宗の教学関係の本は、知識的な意味での参考文献としては、はっきり言って、過去の創価学会の出版物よりも遥かに劣っています。

はい、それも全くその通りだと思います。

> 創価学会に関しては、手綱をつけておかなかったことが一番の失敗だったと思います。
> せめて創価学会内の人事権だけは日蓮正宗側でしっかり把握しておけばよかったのではないかと。

戸田会長や池田がうまいこと御宗門を
介入させないようにしていたのではないでしょうか。
まあそれにしても信徒さんを信じすぎていたことは確かでしょう。
のいない仏法を持(たも)てない在家の創価は頭に指導教師を頂くべきでしたね。

Re: 創価学会が無ければ今の日蓮正宗も無かったことは事実

> 今の日蓮正宗で行われている折伏戦も支部登山も、はっきり言って、過去の創価学会の真似じゃないですか。

支部登山が創価の真似というのは初めて知りました。
しかし御宗門も創価に関しては部分部分においては
正宗より優れている部分もあることは認めておりますね。

> 創価学会が出現して、ある程度の独自性・独立性を持って布教活動をしていなかったら、今の日蓮正宗の布教活動も無かったはずです。

なかなか表現するのは難しいですが
それにはちょっと複雑な思いがあります。

> 創価学会が出現しなかったら、日蓮正宗は、富士宮市の外ではほぼ無名の弱小宗派のまま、緩やかに衰亡していく運命だったでしょうね。
> 過去の創価学会の功績は素直に認めなければならないと思います。

一応近代に入ってから色々問題を抱えていたとはいえ
広宣流布を大いに前進させたことは紛れもない事実です。
別にそこは否定しておりません。

Re: 日蓮正宗は信徒が自力で仏法を学ぶことを恐れている


実を言うと私も恐れております。
在家が仏説を自力で学ぶことが果たしてできるのか甚だ疑問です。
私も教学に関しては非常に慎重です。

> 今の日蓮正宗で教学を自力で深く学ぶことは非常に困難ですね。
> 良質の教材がありません。
> まともな英訳御書全集さえも無いので、特に海外の信徒にとっては、絶望的な状況です。
> 御宗門は「深く学びたいなら、末寺の住職に聞けばいい」というお考えなのでしょうが、その方式では限界があります。

私が所属している御住職はいろいろ書籍があるのでそれで自分で学んでほしいと
おっしゃっておりました。
その時は軽くショックでしたね。
「えぇぇぇ」となりました。

> でも、それは団体に対する管理・指導が甘かったからであって、自力で教学を学ばせたからではないと私は思うのですが。

Re: 流儀が違っても

> 当然、創価問題の原因は思想の狂いにありますが、会員が理性で制御できているのなら批判しなかったです。

帰命依止の対境を誤れば
いずれ創価みたいになります。
現実に出てくる現象それ自体はいろいろありますが
本人は本人なりにそれが正しいとも思ってやるわけですからね。

> その辺りの認識の違いを管理人さんに感じますよ。

というとどういうことでしょうか。
私は創価をこれっぽっちも認めておりませんが。

創価学会の何が悪いのか

>私は創価をこれっぽっちも認めておりませんが。

創価が人を不幸にする実態を見て、その原因は何なのかを見極めていく。それには様々な考え方がありますね。
また人間ですから今置かれている立場によっても見方が左右されるものですね。
宗門離脱後から顕著になりましたが、法人設立当初から創価は弱者を利用する商売目的であったというのが私の考えです。
日蓮正宗や日蓮の御書の教えを利用しながら自らの野望を達成しようとする行為は、今でこそ精神が不安定な頭の弱い人達だけしか騙されませんが、戦後の混乱の中にあっては騙される人達が多数居たのだろうと推測しています。
もともと正宗の教えと創価の教えはその目的が違う。粉飾しながら、こじ付けながら、信仰化が行われたのだと仮説すると、これまでの創価の歴史が矛盾なく説明できます。
私はその結論に至ったので、正宗創価蜜月の時代の信心のあり方に肯定できるものは何も無かったりします。
現在でも、いや創価と決別してからの方が御書を拝読してますが、日蓮の考えとは全く違うものを創価は会員の心に醸成してきたのだとの感が強くなります。
それを一言で言えば、現世利益を求めギャンブル依存症を作る祈りであり、自立不能な大人を沢山作ってきた。
創価教学では一生成仏をそのように定義を変えなくてはならない。
一生懸命に信仰してそうなってしまう、その現証を説明できることは御書にはありません。

Re: 創価学会の何が悪いのか

> >私は創価をこれっぽっちも認めておりませんが。
>
> 創価が人を不幸にする実態を見て、その原因は何なのかを見極めていく。それには様々な考え方がありますね。
> また人間ですから今置かれている立場によっても見方が左右されるものですね。

池田大作と創価学会が悪いのは正法正義(しょうぼうしょうぎ)に違背し
正しい三宝を誹謗させ一代秘法の大御本尊様を捨てさせ
827万世帯の無辜の純粋な学会員を無間地獄に叩き落したことです。
仏法史上未曽有の極大謗法です。

日蓮大聖人の信仰と創価の信仰の違いが分かったのは

>池田大作と創価学会が悪いのは正法正義(しょうぼうしょうぎ)に違背し
>正しい三宝を誹謗させ一代秘法の大御本尊様を捨てさせ
>827万世帯の無辜の純粋な学会員を無間地獄に叩き落したことです。

私が、少年の頃から違和感を感じていたのは、学会活動と個人の信仰のあり方の違いです。
信仰者として毎日規則ただしく勤行を励行して、学業や生活に努力する。もちろん青年期には化他行として折伏が始まり、大学1年時には当時の掟であった2世帯をクリアしています。
しかしながら、本来の日蓮の信仰とはかけ離れて、学会活動中心の信仰になってしまっていたことに違和感を感じていました。
そもそも御書を拝読するという行為は全く自発的な行動であり、自らの信仰を省みるための思索の機会ですね。
そういったことまで学会活動中心に考えると、勉強会となってしまう。
知識を入れることは重要ですが、生活上の結果や内面の深化を求める行為とは違う習慣なわけです。
その組織活動中心の忙しい習慣は、信仰の目的が個人ではなく、組織の利益のために行わさせる為のもので、その証拠に破門後は日顕宗の悪口を学ぶなどという下世話なものまで教学としてましたね。
私が感じた創価の違和感は、正宗と創価がまだ表面上対立していなかった時代でした。
もちろん今もそうですが、法華講が正しく日蓮大聖人の精神通りの活動をしているのか、信徒ではないので実態は知りません。学会活動はもともと御書と違うわけです。
違和感の元をたどれば、そんな昔の時からだったりします。
そして正宗との対立と破門。大御本尊を捨てた行為など、ああやっぱりやったな、とのダメ押しの確定でした。
たぶん、こつこつと信仰を貫く祖父の信心をみてたせいだと思います。

Re: 日蓮大聖人の信仰と創価の信仰の違いが分かったのは

> >池田大作と創価学会が悪いのは正法正義(しょうぼうしょうぎ)に違背し
> >正しい三宝を誹謗させ一代秘法の大御本尊様を捨てさせ
> >827万世帯の無辜の純粋な学会員を無間地獄に叩き落したことです。
>
> 私が、少年の頃から違和感を感じていたのは、学会活動と個人の信仰のあり方の違いです。
> 信仰者として毎日規則ただしく勤行を励行して、学業や生活に努力する。もちろん青年期には化他行として折伏が始まり、大学1年時には当時の掟であった2世帯をクリアしています。
> しかしながら、本来の日蓮の信仰とはかけ離れて、学会活動中心の信仰になってしまっていたことに違和感を感じていました。

その通りでございます。学会活動と信仰とを
意図的かどうかはわかりませんが
それとなく混同させて自分たちの利益のために会員を
東奔西走させる創価学会は極めて悪質です。

法華講は個人の信仰を尊重しているそうですね

そこに何より健全であることが表れていると思っています。
戦後、国内では急速に組織化が進み、組織活動こそが成果を効率的に出せる方法なのだからと、組織の規模や財力や権力を高めることが目標の達成に不可欠であるとの錯覚が、どんな組織にもありましたね。
創価はその典型かもしれない。
しかしながら個人の幸福や人格の完成は個人の信仰の中にあり、当然なのですが、組織に中にはない。
三代会長を神格化して頂点として、あたかも創価学会の役職を上げることが一生成仏だとすり替えて騙したのが創価でしょう。
それは経営者が社員を使う手法ですね。もともと経営者であった戸田から池田と受け継がれた事だろと想像しています。
職員には報酬がありますが、一般会員には報酬がない。
にもかかわらず生活や仕事を犠牲にして組織に奉仕しなければならない。
必然的にそれを可能にするためには下位の者に強要できる権威主義的傾向が強い組織になりますし、創価学会員は利用され、純真な人ほど不幸になっていく現証となっていく。
現在の悲惨な学会員の姿はそれが原因でしょう。
>それとなく混同させて自分たちの利益のために会員を
東奔西走させる創価学会は極めて悪質です。
これはそういう意味でしょう?

ある程度の組織への貢献は必要

組織への貢献が全く必要ない組織などありえません。
法華講でも、講頭などの役員になれば、会合の準備やら運営やら出席やらで、ある程度は自分を犠牲にしなければなりません。
組織に貢献することで自分が成長できるという側面は確かにあるし、その分の功徳もいただけるでしょう。
ただ、創価の場合は、組織への貢献が明らかに度を越しているところが異常ですね。

Re: 法華講は個人の信仰を尊重しているそうですね

> そこに何より健全であることが表れていると思っています。

よく言えば自主性を重んじる。
悪く言えば放置。
takeda様からコメントでもありましたが
確かに教学を身に付けようとすれば
なかなか難しいこともございます。
法華講も創価も組織としては一長一短があるでしょうね。

> 戦後、国内では急速に組織化が進み、組織活動こそが成果を効率的に出せる方法なのだからと、組織の規模や財力や権力を高めることが目標の達成に不可欠であるとの錯覚が、どんな組織にもありましたね。
> 創価はその典型かもしれない。
> しかしながら個人の幸福や人格の完成は個人の信仰の中にあり、当然なのですが、組織に中にはない。
> 三代会長を神格化して頂点として、あたかも創価学会の役職を上げることが一生成仏だとすり替えて騙したのが創価でしょう。
> それは経営者が社員を使う手法ですね。もともと経営者であった戸田から池田と受け継がれた事だろと想像しています。
> 職員には報酬がありますが、一般会員には報酬がない。
> にもかかわらず生活や仕事を犠牲にして組織に奉仕しなければならない。
> 必然的にそれを可能にするためには下位の者に強要できる権威主義的傾向が強い組織になりますし、創価学会員は利用され、純真な人ほど不幸になっていく現証となっていく。
> 現在の悲惨な学会員の姿はそれが原因でしょう。
> >それとなく混同させて自分たちの利益のために会員を
> 東奔西走させる創価学会は極めて悪質です。
> これはそういう意味でしょう?

Re: ある程度の組織への貢献は必要

> 組織への貢献が全く必要ない組織などありえません。
> 法華講でも、講頭などの役員になれば、会合の準備やら運営やら出席やらで、ある程度は自分を犠牲にしなければなりません。

もちろんそこは心得ております。
役員の方々が色々動いていらっしゃるのは存じ上げております。
私もできる限りは”閣外協力”させていただいております。
でも組織信仰はもううんざりなんですよ。
以前も役員に誘われましたが断りました。
少なくとも今は役員になる気はございません。
平講員として”閣外協力”にとどめております。
今のところはね。
ちなみに組織的なことでいえば
創価より法華講のほうが私の肌には合います。

組織信仰の定義を知らない

何を指すのかはなんとなく分かりますけど。
信仰は個人ですね。個人内面的な深化ですからね。
それが心の財であり、心が豊かだからこそ身の財も蔵の財もついてくる。
また、その関係性には相関関係が成り立ちますね。
心が狂えば、身の財も蔵の財もあっと言う間に失う。
それが学会員の現状であり、その不幸を利用して一部の職員だけが潤う関係ですね。
だから職員は社会悪だと知りながらも必死に組織を維持しようとしている。
その現状を正しく知り「創価をぶっ潰せ」とやる人が出てくるのが健全な社会だと思っています。
その組織の目的が「創価をぶっ潰せ」ならできる範囲で協力したいと思っています。

法華経信仰は個人でやるものじゃないっすよ

真理オタクの人は、法華経方便品の冒頭部分をよく注意して読んだ方がいいかと。
「諸佛智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切聲聞。辟支佛。所不能知。所以者何。佛曾親近。百千萬億。無數諸佛。盡行諸佛。無量道法。」
(意訳:仏の境涯は真理オタクにはわからない。仏は過去に百千万億の無数の諸仏を師として無量の修行を実践し尽くして成仏したからである。)
実際、法華経の中では、釈尊の頭でっかちの弟子たちは遥か未来の成仏を保証されただけで最後まで誰も成仏していませんが、素直に菩薩行を実践した龍王の娘はすぐに成仏していますからね。
これが法華経信仰です。
日蓮大聖人の御真筆が現存している御書「三三蔵祈雨事」の冒頭にも、「独りで信心していたら挫折しますよ。師匠や同志は大事ですよ」(意訳)と説かれているでしょう。
組織や組織活動が大事だという根拠は確かに法華経や御書の中にあるんですよ。
創価はその根拠を拡大解釈して悪用していますけど。

Re: 法華経信仰は個人でやるものじゃないっすよ

> 創価はその根拠を拡大解釈して悪用していますけど。

もっとも創価首脳部は信心がないもので
彼らにあるのは創価内外において
影響力を拡大させるための創価組織なんです。
学会の場合はその組織を拡大、維持する手段として
信仰を利用しているのが問題であるんですよ。
学会首脳部にとって組織が主で信仰が従なんですね。
法華講は信仰を成り立たせるための組織で
信仰が主で組織があくまで従、手段なんですよね。
その信仰を成立させるための手段としての組織であれば問題ないのではないでしょうか。

日蓮正宗の信心は真理信仰ではないと日寛上人が仰せ

事行と云うは久遠元初の自受用報身宗祖の色心の全体を事と云うなり。これを本尊と顕わして此の事を行ずる故に事行と云うなり。是れ法体も事なり。行も事なり。故に事行と云うなり。(中略)所行の法体は理なれども事に行ずるが故に事と云はば返て天台勝れ宗祖の事行は劣ると云うべきか
(意訳:日蓮大聖人の全てを曼荼羅に書き顕してその曼荼羅に合掌礼拝するのが日蓮大聖人の仏法です。信仰の対象も具体的な物体で、修行も具体的だから、事行の一念三千と言うのです。……究極の真理を信じて唱えるのが日蓮大聖人の教えであるというなら、日蓮大聖人の教えは天台宗よりも劣ることになります)
※日寛上人の観心本尊抄講義を記録した「観心本尊抄聴聞荒増」より抜粋。
※「大日蓮」昭和59年2月号(第456号)82~83頁、または「富士學林教科書 研究教學書」第2巻558頁を参照。

真理オタクさんには、天台宗かオウム真理教の方が合っていると思いますよ。

Re: 組織信仰の定義を知らない

> その組織の目的が「創価をぶっ潰せ」ならできる範囲で協力したいと思っています。

私も含めて個人的にはいろいろ思いがあるんでしょうが
私も別に創価を憎んでいるわけではございません。
折伏は慈悲行です。
憎んでやるものではございません。

Re: 日蓮正宗の信心は真理信仰ではないと日寛上人が仰せ

> 真理オタクさんには、天台宗かオウム真理教の方が合っていると思いますよ。

御本仏の悟りを凡夫がいくら考えてもわかりませんからね。
仏の悟りを分かると思うのは増上慢です、それも大増上慢です。

カルトのマンイドコントールの恐怖

スリーブンハッサン氏だったか。20年か30年かの大昔に詠みました。この書がカルトMC研究の出発点になったとも言われてますね。
日本にある脱カルト協会もその後の発足だったと記憶しています。
信者はMCされていた期間と同じ期間、脱会しても影響が抜けないとされてますね。
私も完全に創価を拒否したのは20年程前ですが、確かに抜け切るまで相応の年月が必要だったような記憶があります。創価に植え付けられていた価値観を全否定できない期間とも言えます。
母の脱会は2年前です。今私がケアしてますが、日常のところどころに創価特有の価値観を覗かせるので、イチイチ指摘して気付かせている最中です。
客観的に全く合理性がない価値観なのですがそれに気付かない。また地獄に落ちるぞとの恐怖の衝動も植え付けられている。
当然、健常者からみればおかしな内容で説得力がないわけですが、創価を理解できないのは人格的な欠陥あるからだとして、切れやすく相手の人格を否定し出す。MCはそれほど人を精神不安定にするわけです。
組織でそういう刷り込みが行われてきたのが学会員ですね。なかなか抜けない。
よく「組織につかせる」と学会では言いますね。活動を忙しくすることで社会の影響を極力少なくし隔離し、MCしやすくする。それは明らかに信仰ではなくMCするのが目的なわけです。
おかしな価値観にMCされれば、次第に社会から外され生活が破綻し、創価の中ににしかアイデンティティを確保できず、また居場所が創価組織内にしかないから隷属化する。
そんな不幸を肯定化する言い訳も創価は様々用意していますね。組織活動に特別な価値あるのだから、来世は必ず幸せになるという。

信教は自由ですが、同時に自己責任を忘れてはだめですね。
管理人さんが、そんな組織信仰の危うさを察知できているは健全だと思っています。

ミラー

>私も含めて個人的にはいろいろ思いがあるんでしょうが
>私も別に創価を憎んでいるわけではございません。
>折伏は慈悲行です。
>憎んでやるものではございません。

「創価をぶっ潰せ」の発言から、私に創価に憎悪があるとのレッテル貼りですね。そうではなく私はライフワークとしてしなければならないことだと思っていますよ。
当然、創価の暴走は宗門にも責任がある。宗門がぶっ潰せ」と先頭を切るべきことだとも思っています。

自分と他人は当然違う思考の持ち主です。
決めつけてしまうのは、これほどテキストを並べているのに他人が何を考えているのか理解できていないのでしょう。同時に自分自身も見えていないのかもしれないと思ったりします。
自身を客観視できるようになると、他人もよく理解できてきます。共感性も出てくるし相手の利点も見えてくる。自立して社会人にはそういう能力が要求されますね。

宗門離脱僧侶が学会の会合に来て「憎悪の題目」をあげろと指導していました。そうすれば業が切れて福運に満ちてくると。
私はそんな出鱈目なと、びっくりしましたけど、周囲は頷いている人達も居てさらにびっくりしました。
ほどなくして美人な女子部が「日顕をぶっ殺して池田先生に褒めらている夢をみました」と座談会でやったわけです。拍手している参加者。
「ああ、これは完全に創価は狂ったな」と思った瞬間です。以降、私は座談会に参加していません。
後は何が言いたいのか、察知してください。

真理オタクは知ったかぶりが本当に好きですね。
自覚が無いんだろうけど、正直言って不快です。

日蓮正宗としては、創価学会を撲滅する意思は当然に持っています。
それは日蓮正宗の機関紙・機関誌を読めばすぐにわかる話で、読みもせず寺に通いもせずに何を知ったかぶってんだろこのアホは?という感想ですね。
ただ、組織を大事にすることや組織のために自分を犠牲にすることが悪だという思考は、日蓮正宗にもありません。
そもそもの話、法華経寿量品の自我偈に「不自惜身命」とあるように、法華経信仰は生命を捨てる覚悟さえも当然のこととして求める信仰です。
信仰のためには組織活動が必要というのが日蓮大聖人のお考えなので、上記を合わせて考えれば、組織のために自分を犠牲にすることもある程度は必要です。
なので、そういう精神性に永遠に到達できなさそうな真理オタクさんは、日蓮大聖人の仏法は向いていらっしゃらないようなので、どうぞご遠慮なくオウム真理教にでも行ってください。

Re: カルトのマンイドコントールの恐怖

> 私も完全に創価を拒否したのは20年程前ですが、確かに抜け切るまで相応の年月が必要だったような記憶があります。創価に植え付けられていた価値観を全否定できない期間とも言えます。

私は元々自我に目覚めた時から心の底では嫌っておりましたので
(というより生理的に受け付けなかった)
創価的価値なんてのは元々一切身に付いておりませんでした。
創価に植え付けられていた価値観というのは何だったんだろうと今思いました。

> よく「組織につかせる」と学会では言いますね。活動を忙しくすることで社会の影響を極力少なくし隔離し、MCしやすくする。それは明らかに信仰ではなくMCするのが目的なわけです。

昔創価から脱会した池田の側近幹部がそう証言しております。
正確にはMCというより考える暇(いとま)を与えないためらしいです。

Re: タイトルなし

> 真理オタクは知ったかぶりが本当に好きですね。
> 自覚が無いんだろうけど、正直言って不快です。

まあ当然法華講員にも創価にもそれ以外にも
いろいろな方がおられるわけで。
そこは冷静になりましょう。

Re: タイトルなし

> なので、そういう精神性に永遠に到達できなさそうな真理オタクさんは、日蓮大聖人の仏法は向いていらっしゃらないようなので、どうぞご遠慮なくオウム真理教にでも行ってください。

まあまあそういわずに。

Re: ミラー

> 宗門離脱僧侶が学会の会合に来て「憎悪の題目」をあげろと指導していました。そうすれば業が切れて福運に満ちてくると。

人の不幸を祈るとそれが全て自分に返ってきます。
それが仏法の因果の理法です。
彼らは人を憎むことの異常性に気づかないのでしょうか。


ああ、また荒しかと

創価で醸成された人格はなかなか抜けない。
どっぷりやれば社会性の欠如がする。
たぶん社会生活は破綻していますね。
本尊を変えても所属を変えてもなかなか難しい。
ヤドカリかと。逃げ込む先を変えただけ。
ふとそうおもいました。
しばらく退避します。

真理オタクの考えが間違っていることを根拠を挙げて証明しただけです。

自分の考えが間違っていることを確たる根拠を挙げて論証されたら、相手の人格をけなす。
そんな人物に私の人格をどうこう言われたくありませんね。
昔は朝晩読んでいた(?)方便品冒頭部分・寿量品自我偈の内容も知らずに、よく知ったかぶれますね。
そもそもの話、キリスト教でもイスラムでも仏教でも、百年千年単位で続いている教団・宗派は、皆、教団・宗派への貢献や組織活動の重要性を説いていると思いますが。
そうしなければ、教団・宗派を維持できないから。
あなたは日蓮正宗には全く向いていらっしゃらないとお見受けするので、独り真理教を続けてください。
あなたが日蓮正宗に来たら所属した寺院の御住職や信徒さんを批判しまくった上であっさり辞めることが容易に予想できるので。

あと私の社会生活がどうこう言ってますが。

普通に定職に就いています。
役職持ちの正規職員です。
私が投稿している日時くらい確認してくださいよ。
あなたの方こそ社会生活を営めているか疑わしいレベルですが。

管理人さんへ

母はもともと自立心が強い女性でしたが、小野塚家に嫁に来て、創価に入信してから依存心が強くなり自立不能な状態になりました。
母の創価信仰を破壊して脱会させたのは私ですが、MCされた状態からどうケアするかが問題で、法華講の人達とブログでやりとりをして実態を把握しようとしてたわけです。
そういった意味で管理人さんにはお付き合いいただき大変お世話になりました。
正宗との関係は先祖の墓があることから、続きますけど、それ以外の関係は断ったほうがいいとの結論に達しました。
いろいろご配慮いただきありがとうございまいます。
機会があればまたどこかで。

Takedaさんへ

創価によくいるタイプだなとTakedaさんことを思っていましたが、悪くは思ってないですよ。
会員はみな創価被害です。
またどこかで。

Re: ああ、また荒しかと

> しばらく退避します。

そうですか、残念です。

Re: 管理人さんへ

> そういった意味で管理人さんにはお付き合いいただき大変お世話になりました。
> 正宗との関係は先祖の墓があることから、続きますけど、それ以外の関係は断ったほうがいいとの結論に達しました。
> いろいろご配慮いただきありがとうございまいます。
> 機会があればまたどこかで。

創価も法華講もそれ以外の人も色々いますよ。
考え方も感じ方もそれぞれ違いますから。
その点はご理解いただければと思います。

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